さて、2月は早いブログアップも滑り込み、
大学の方は1年間で一番過酷な1月末〜2月頭を乗り越えて半ばは少し落ちつき、
第2波は2月末〜3月はじめに来ます(来てます。)
ということで、毎年のこの時期の恒例になっていますが、リサーチに東京へ行ってきました。
この時期は、主に恵比寿映像祭の上映、展示が目的ですが、今回は丁度文化庁メディア芸術祭の会期にも重ねて来られて、その他興味のある企画展もいくつかあってなかなか良かったです。

(雪の東京1)
2/13、到着後メディア芸術祭の海外映画祭特集ファントーシュ国際アニメーションフェスティバル、恵比寿映像祭上映プログラム1本を鑑賞。
夜は、これも東京恒例コンちゃん、田中くんと飲み3時迄。この飲み会はいつもホントに楽しい。
忙しいところありがたいっす。
2/14、アンディ・ウォーホル展:永遠の15秒@森美術館、さわひらきUNDER THE BOX, BEYOND THE BOUNDS@オペラシティアートギャラリー、恵比寿映像祭上映プログラム1本を鑑賞。
ウォーホルは、好きなアーティストでもあるし、複製メディアを扱う作家として少なからず影響も受けています。
今回は、期待通りに50's商業デザイナー時代のドローイング仕事をまとめて見られたのがとても良かった。映像作品の方は、作品を個別に丁寧にというよりは、資料的に小さなモニタ展示と1展示室にザックリとした印象をドカンドカンと大型タブロの如くまとめてプロジェクション。映画作品は本来の意図とはそれているのだけれど、展示空間で映像的な体験という点では、これはこれで良いなぁと思った。
「スクリーンテスト」を1ch、画面分割で見せていたのが意外と面白かった。でも、この作品だけを超大画面で人数分全て展示というのもいつか見てみたいなぁ。(最近では、2009年の恵比寿映像祭にて小さめのモニタ展示がありました。)
展示全体としては、ウォーホルというポップのスーパースターの為人を生立ちから、年代毎の仕事、作品の遍歴をその当時本人が発した言葉と共に、分かりやすく丁寧に展開してくれています。家族写真や旅行の写真がすごく良い。ウォーホル語録は、まぁその通りと思いつつも、割り切れないこの身にはザクっときますね(笑)。「制作中は機械になりたい」というのは共感。超ポジティブにネガティブで気持ちよかった。
少し引いて見ると、ウォーホルをある面で当時のアメリカの象徴と見立てて、ウォーホル大好き=アメリカ大好きみたいな感じのとても肯定的な内容です。
欧州で見て来た様な、コレクションの中に時系列に並列的に並べられた客観的なウォーホルとは印象は全然違いますね。勿論回顧展なのでそうれはそうですが。東京の後は中華圏の主要都市を巡回する様です。
一番ウォーホル的だったのは、展示室に直結している特設のミュージアムショップ(お土産屋さん)。「あ、これはまさにウォーホル!」って(笑)ウォーホルグッズの氾濫です。
さわひらき、同年代の映像系アーティストとして以前から興味のある作家です。お会いしたこともなく一方的に作品を見ているだけなのですが、作品を初めて見たのは、横トリ2005(アートサーカス)だったかな。その後、国内での展示がある時は、タイミング良く結構見ていました。
一貫して、1ch(シングルチャンネル*)の映像インスタレーションで空間構成というスタイルだと思います。
近年国内で美術館企画展示室全体を使った規模での、映像インスタレーションの作家個展というのは、2009年の束芋 断面の世代@横浜美術館以来じゃないでしょうか?(映像も要素としてふんだんに取入れたインスタレーション系作家個展は幾つかあったと記憶しています)
さわさんの作品は、描かれる映像の内容と空間構成という点で、時間、空間、映像(の中身)をしっかりとフィットさせられているというのが初めて見た時からの印象です。
過去作も含めた展示でしたが、今回初めて見た作品(2012年以降の作品)の中には、これ迄の作品と比べて、よりナラティブな展開を意識された構成、ドキュメンタリー性の高い内容のものがありました。作品の解釈として言語的に理解しやすい面が強まり、ポエティックな表現からより映画的な構成に変化したという印象受けました。
また、今回さわさんの作品を見ていて少し気付いたことは、作品中の光に対する扱い方、感覚が西洋的だなぁと思いました。
白黒主体の映像から感じていた独特の気配の様なものは、そう言うことなのかなぁと。
長らくロンドンを拠点に活動されているそうなので、現地での生活や経験から自然と醸し出されたものなのか若しくは、意識的に取入れられているのかなと想像しました。
ぼくも長期とは言えないまでも1年間をドイツで過ごしました。その間ドイツ国内はもとより、欧州各所(主に中央、北、東、もちろんロンドンも)を見て回り、感じたことの1つに光に対する日欧間の感覚の違いがあったのです。
ぼくが回っていたのは、北海道とは気候風土がよく似ているといわれることもある様なヨーロッパの地域でしたが、現地の実生活に触れてみると、例えば生活空間に自然と取入れられているろうそくの明かりや街の中の街灯の明るさ、住宅から漏れだす明かりなど、暗がりの中に必要な分だけの光を灯すことを好んでいる様に思いました。均一にどこも明るくしていることが一般的な日本の生活空間の明かりとはずいぶん違っていました。初めはそこに違和感を感じていまいたが、ぼくには、どちらかと言うと欧州スタイルの方が身近な所で扱う光に対して意識的に大切にしていて、それが厳かでどこか神聖な感じもしていました。
その感覚の違いについては、いくつも訪れた現地の教会内の採光の仕方や照明、博物館での生活様式の遍歴を見せてくれる郷土資料等の展示を見る中で、宗教観の違いと日常生活レベルで信仰が意識化、様式化されていることに起因するところがあるのかなと考えていました。
そう言ったことをヒントに改めてさわさん作品と対峙すると、映像自体の構成、作り込み(光の表現)に加えて、暗闇の空間の中に如何に映像(光)を配置するのかというインストールの面でも考えながら見られたのが良かったです。
ついでに、ここで少し映像インスタレーションについて思うこと。
映像インスタレーションは、手軽で高性能なコンシューマー映像ツール(ソフトもハードも)が出そろって、それらの一般的な普及率の高まりと同時に、現代美術シーンにおいても映像が展示空間に存在ことは、すっかり見慣れた光景となりました(今更言うまでもなく)。
ただ、個人的には興味を魅かれる映像系の展示作品に出会うのはとても稀なことです。
最近ギャラリーや美術企画展などの映像系の展示で良く見かけるのは、
・映画やその他マスメディア映像の部分的なところにインスパイアされた様な映像ソースで構成されたもの、
・日常的に撮った(若しくは、撮れてしまった)様な映像の断片的な集積、
・ビデオアート創出期の作品から発想を得た様なアクション、パフォーマンス映像、
・ドキュメンタリー映像、インタビュー映像、
・リサーチ系、プロジェクト系、ワークショップ系の記録映像、
といったところでしょうか。勿論全てあてはまるわけではないけれど、傾向としては強いと思います。
因に、映像作品のプレビューとして展示空間にモニタ展示やプロジェクションしているものは除きます。
そして、こういった作品と対面する時に考えることは、インスタレーションである必要があるのか?ということ。
例えば、単にドキュメンタリー的な映像の壁投影といった作品を見たりすると、映像の内容より先に展示手法としてとて疑問が残ります。インスタレーションである以上、映像の内容と映像が空間に配置されていること自体が要素化された状態で構成された空間になっていることが重要ではないかと思っています。その点で、インスタレーションとして、しっくりくる作品を見られる機会はとても少ない気がしています。
また、絵画や写真等のタブロー作品と同等に、展示壁に配置される展示手段にも、まだ少し違和感を感じています。
(作品自体のコンセプトとしてその展示法が選択されている企画や作品は別として)…
これは、ぼく自身が映像表現を映画から出発し、上映志向の表現を主体として続けて来ている立場としての捉え方なのだと自覚はしています。
(書いてます、・・・・・・・もう一息)
*鑑賞者が作品(投影された映像)に参入できるインタラクティブな表現が出現して以降、インタラクティブアートとビデオアートの差別化もあってか、映像画面を空間へ投影するのみの映像インスタレーションをシングルチャンネルと明示することが普及している。1つの映像ソースに対して1つのモニタ出力若しくはプロジェクションを1ch(チャンネル)とし、複数の映像ソースをそのソース数分のモニタ出力、プロジェクションを行う場合その入出力数に応じたチャンネル数で表記される場合もある。例:4つの映像を4画面で出す=4ch。

(雪の東京2)
2/15、前日からの記録的な東京の雪が朝まで続き、午前中はやむなく宿でデスクワーク。
本当は見たかった国立近美フィルムセンターの小津安二郎の図像学と恵比寿映像の関連企画にもなっていたローレンス・ジョーダンとコラージュ展をロスト…、レアだったのに残念。
午後からは晴れて、新美で開催されている文化庁メディア芸術祭へ。本展を見たのは初めてでした。
エンターテイメント部門のグランプリ作品「SOUND OF HONDA/Ayrton Senna 1989」の受賞者プレゼンを鑑賞。有意義なプレゼンでした。この作品は、アイルトンセナが1989年の日本F1Gで出した世界最速ラップの走行データが印刷された紙(紙切れ1枚)が残されていて、そこに記載された波形や数値から当時セナがサーキットで奏でたであろうエンジン音を再現するというプロジェクトです。
最終的には、最速ラップを出した鈴鹿サーキットコース中にLEDとスピーカーを張り巡らせ、光によるスピードの可視化とともに実際の場で忠実にライブで再現するという壮大なサウンドインスタレーションの様な作品となっていました。
制作チームの話の中で興味深かったのは、データを音声化するプログラムに加えて、当時その場で生でその光景とエンジン音を体感した人達の記憶に残っている感覚を忠実な再現の為のチューニング役として重視していたところ。ぼくはこれまで、身体的なことや想像の範疇をより正確に客観的に何かしら形づくる為にアルゴニズムが用いられると思っていたのだけれど、この作品の場合はその逆で、人の体に入力するもの(この作品の場合、過去の音声の再現)の精度を上げる為に、主観的な人の感覚を最終的な判断材料としているプロセスが新鮮に感じました。
人が作ったアルゴニズムの差分で失われてしまう物理的な情報を補うのは、人の記憶や感覚ということなのかな。
更に、制作メンバーの1人真鍋大度氏の発言にあった、LEDを用いて速度をコース上に可視化する際に、データ解析の解像度を如何に設定するかに難儀したという点も興味深かった。
アルゴニズムを扱う立場だと解像度や差分の設定が任意で、その設定や調整に個性が出たり表現性が備わるのかと解釈しました。
イメージを形成する解像度にしろ動きを生成するフレームレートしろ定まったフォーマットの中で如何に表現するかとう映画作りとは全く違う表現上の感覚があって、それもまた新鮮でした。
差分に見出す表現性という観点では、もしかすると文学における行間だったり絵画や写真表現における余白の様なものに共通することなのかもしれない。そう思うとアルゴニズムがなんだか少しロマンチックなものにも思えたのです。
夜は、森美のウォーホル展に合わせて渋谷のイメージフォーラムで開催のウォーホル映画回顧展へ。ウォーホルの映画はこれまでも何度かみているけれど、未見の「チェルシー・ガールズ」(1965)を見る。予想外の満席、立ち見。外の行列で冷えきった体には丁度良かった。
スクリーンに対しては好ポジションをとれたけれど、みっちりすし詰め状態のシアターで210分、2画面マルチのフィルム上映、かなりヘビーな映画体験でした。でも、面白かった。ウォーホルの映画は、ノンナラティブ、超長回し、デタラメな(と言われる)カメラワークなどで嫌厭されがちなところもあるけれど、ぼくは結構好きなんです。確かに映画として見ると苦行に近い鑑賞の辛さはあるかもしれません、でもウォーホルのアーティストとしての志向を踏まえて、絵画やシルクスクリーンの延長で見てみると、秒間に大量に似た様なフレームがイメージ化される映画の仕組みは、ウォーホルにとってはもの凄く効率的に複製品を生成すツールだったはずで、更に時間を取り込むことで自動的に生まれるフレーム間の微妙な差異も魅力だったのだと思います。そう想像しながらだとウォーホルの作ったイメージをフレーム単位で高速に大量に消費してる感覚が面白いのです。
しかもフィルムで見ると、結構劣化してしまっているので、ウォーホルが制作当時には意図していないテクスチャーが物理的についてしまっていて、そういうのも面白い。正しい見方ではないかもしれませんが、、。
その意味で、「エンパイア」(1964)も大好きな映画です。まだ約8時間の全編は見たことがないですが、いつか見てみたい。勿論フィルムで。
2/16、Kawaii 日本美術@山種美術館、恵比寿映像祭の展示作品鑑賞とレクチャー「Fシネマ・プロジェクトフィルムから映像の現在を考える」に参加。
Kawaii 日本美術、日本のカワイイの根元を求めて見に行く。むーん、動物が凄まじく可愛いぃ〜。
山種美術館は最近とても好きな美術館の1つ。そして行くとショップでハガキを沢山買ってしまうのです(海外のお友達向け)。お土産としてとてもよく出来てる。
恵比寿映像祭、展示作品を見て、先述した映像インスタレーションの在り方について、改めて考えさせられる。
今回は「トゥルー・カラーズ」というテーマで、色々な世界の事象を地域性とグローバリゼーションの影響という視点で捉えられた作品が比較検証するような形で集められていました。展示作品でもドキュメンタリー性の強い作品が多かった印象です。
ぼくの中では、インスタレーションとして最も成立していると思ったのは、ホックニーの作品「ジャグラーズ」(2012)でした。
この作品は、2012年の大個展「A Bigger Picture」でも見ているのですが、基本構造は、1つの光景を時間軸と多視点で分解、再構築したホックニーのフォトモンタージュ手法であるジョイナーフォトの動画バーションです。展示作品の完成度としては、映像作品、インスタレーションの作品群の中にあって、画家が映像を道具やマテリアルとして扱っい動くイメージをフィックスしたタブロー作品として際立っていました。
レクチャー「Fシネマ・プロジェクト フィルムから映像の現在を考える」
フィルムに関して、インディペンデントなコミュニティ連携、アーカイブ、興業、美術館の4者の立場からの現状報告と意見交換。
マスな商業向けには、ほぼ終焉を迎えたと言える映画フィルムについて、商業映画の制作やフィルム製造メーカーの事情とは切り離したところで、過去100年間につくられてきた知的財産の保管、そのアーカイブの運用を論点に…
(書いてます、・・・・・・・もう一息)

(三島駅から美術館へのバス)
2/17、IZU FOTO MUSEUM 「増山たづ子 すべて写真になる日まで」
帰りの日は、東京から
快晴で車窓からもクッキリと綺麗な富士山!
三島の駅から送迎バスで美術館へ向う途中も綺麗に見え過ぎててテンションが上がっ、、、てる場合じゃなかった…
(書いてます、・・・・・・・もう一息)