2012年11月20日

記憶の価値(1)

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カッセルで開催されているドキュメンタリー国際映画祭Kassel DOKへ視察。

カッセルに着くとdocumentaの時の人の賑わいはどこへやら?のゴーストタウン状態…
そんな中、駅直結の映画館だけが、映画祭参加者で賑わっていました。

Kassel DOKは、ヨーロッパ外ではそれほど認知度の高い映画祭ではないと思います。
でも、ケルンの知り合い映像作家達もこぞってドイツ国内ではおススメとして上げられる映画祭の1つ。


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実験的な作品、アニメーション等も含まれ、インスタレーション作品の展示も行われている、Extended Documentaryな映画祭でした。
映画祭としては、約一週間の中、扱う作品数は大量で、全てを見きるのは難しい程。各プログラムの担当者が、作品毎に作家と作品を丁寧に紹介するのが好印象です。
もちろんQ&Aもみっちり、その為にタイムテーブルはいつも押してしまうという状況です。映画祭の進行は基本的に全て英語で進められます。


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カッセルにはフィルム、アートを教える大学もある為か来場者には若い世代もかなり多い。
会場は駅構内のメインシアターの他に徒歩10分圏内に2つとdocumentaでも展示会場になっていた、駅舎脇のギャラリースペースにてインスタレーション作品の展示となっています。
それぞれのシアターにも特徴があって雰囲気が違うので、そこも面白い。
座席の前にテーブルの様な台が備え付けてある。こういうシアターは日本にはないなぁ。ビールおいたりメモとったり(暗いけど)結構便利。


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その他、フェスティバルカフェ兼アーカイブもあり、プログラムで見られなかった短編はこちらでチェック。カフェメニューには暖かいスープもあります。
カッセルはケルン以上にとても寒かったので、到着してすぐここのスープで助かった。

さて、表題の件、

ドイツに来てから、欧州の映画祭、現代美術系の映像作品等を見てきた中で、今年はプライベートな記録がテーマになった作品がよく目立っていた様に思える。映画祭では、家族をテーマとしたプログラムを立てられていることもあった。そして今回Kassel DOKでドキュメンタリー作品を多く見てきた中で、この傾向について理解する為の糸口が少し見えてきたかもしれない。

パーソナルな事柄をテーマとすること自体は、特に新しいことではなく、60,70年代のフィルムマテリアルの実験映画、70,80年代の初期のビデオアート等においても映像表現の記録性、再現性という視点で、新しいメディアとしての特性を提示する形も含み、その当時の現在が進行形で表現されることから始まっていた。

しかし、上述の傾向は、パーソナルな事柄が今現在ということに加えて、過去の個人的な記録を素材として用いることを基本的な構造としている。
映像とナレーションによるスタンダードなドキュメンタリースタイルから、視覚効果的にも実験的な表現、ナラティブ、ノンナラティブと手法は様々だけれど、制作者の幼い頃の写真やビデオ、世代によっては8mmフィルムの場合もあるが、本人と家族に関わるプライベートな記録を再構築しながら過去の記憶を蘇らせ提示するという点で共通している。

そういった作品が1、2点であれば、その作家のスタイルとして受け取るけれど、ある種の傾向として現れていることに、表現における現代性を見出せるのかなと思うと、とても興味深い。

このプライベートな記録の2次的使用による作品が注目される要因としては、「記憶」に対する価値観の変化が、起こっているんじゃないかと考える。

世の中的には、写真や映像を記録することは、とても手軽になって、「撮る」という行為が殆ど日常の極自然な振る舞いであるかの様にポピュラーになり、「見せる」ことについても、デジタル化やネットワーク技術の発達によって、個人的な記録であっても、簡単に他者に見せる若しくは 、他者が見ることが出来るといった環境が整った。

「撮る」「見せる」ということが手軽になったことによって、例えば記憶の価値みたいなものが(あるとしたら)軽くなったのかというと、そう言う訳でもない。むしろ、今までとは少し違った方向で記憶に対する価値が出て来た様に思える。

技術の進歩やメディアの移り変わりによって個人的な記憶の可視化が習慣化、一般化して行ったのと同時に、
当たり前の様になった記録する行為が、他者の記憶への好奇心をより高めているんじゃないだろうか?
そして、今現在の記録に対する意識が活性化することで、過去の記録=記憶に対する興味も深まったんじゃないかと思う。

映像メディアによって過去の記録を見ることで、他者の記憶を疑似体験できたり、それをきっかけに自分の記憶も蘇らせることもできる。
そのことが社会的に記憶を共有することと相まって、映像作品として、過去の記録を用いる、またそう言った作品が注目を集める要因となっている様に思える。

プライベートな記録であっても、不特定多数の他者に共有されることで、大衆の記憶へと昇華される。

記憶の価値の変化がもたらした映像表現による記憶の再構築は、現代アートとしての社会的機能にも通じる。

個人的には、更にこの記憶の価値をキーワードにする事で映像における媒材(フィルムマテリアル、ビデオ、データ)の扱い方についても単に先端メディアというだけではない現代性を見出せるんじゃないかと思っている。

(記憶の価値について、映像史のフィードバックや表現から考えたいので、SNSの台頭によるプライバシーの共有化の様なことにはあまり触れていません。)

posted by ani at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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